作品の意図するもの                 00-1-8
 
 

 私はいわゆるコンセプト(概念)が前提にあっての制作ではないと思っている。わりと単純な思いつきから始まることが多い。今後はわからないが、今まではそうだった。だから、作品について、とくに完成前に説明を加えることはむずかしい。それじゃ、できあがった作品は何も語らないかというとそうでもない。とくに意識したり意図しなくても作者の意思とエネルギーは確実に含まれているし、作品を生み出す原動力となる情熱が精神のエキスをを注ぎ込んでいるはずだから、作品が勝手に語り始めたとしてもなんら不思議ではない。作り始めるときにはなくても、作る過程で生まれ育っていく場合もあるだろう。完成後に思いもしなかった世界を感じとることが結構ある。そんなときは、お気に入りのオマケがついていたようでとても嬉しいものだ。

 作品を作るとき、私は概念的でなく、説明的でなく、ましてや感情的でなくできるだけ感覚的でいたいと願っているが、正直言ってときには余計なものがちらついて純粋な創造の邪魔をしたり、迷わせることもある。それを誘因するのは、あやまったサービス精神や,自分をさらけだすことへの恐れだったりする。それを強く意識すると、自分にないものを出そうとしたり、逆に自分を押さえ込んだり、理解を得ようとして説明的になったり、情に訴えて無理矢理自分の世界に引っ張り込もうとしてしまう。さらに外界との比較であったり、評価を気にし始めるともっとごちゃごちゃになってしまう。

 とにかく制作中は日常的な思考が入り込んで覚醒し過ぎてはいけない。つまり、考えてしまったらダメだ。何も入り込む余地がないほど夢中になり、酔いしれているときに最高のものが生まれる。そんなときこそ、もっとも自分の本質的な部分が出るに違いない。それらを積み重ねると、そこに共通 した意識内容が発見され、さらにその作業を長期にわたって見続けると、より総合的で普遍的な観念につながっているのがわかってくる。それが概念、コンセプトになるだろう。

 卵が先か、鶏が先かに似ていて、原因と結果もいつの間にか、どっちが先か後かわからなくなってしまう。何らかの信念を持ち、自分を真剣に生き続けていれば否応なくコンセプトは身に付くものだから、そうした人の純粋な作品にそれが含まれているのは当然だろうし、作品がそこから出発していると考えてもまちがいではない。

 コンセプトのもとに作る(行為や場の設定を含めて)ことを決して否定してるわけでない。私の場合、今まではそうでなかったというだけで、明確な意図に基づいて創造するおもしろさも感じているし、多くの人達の反応を確かめ、感動を共有し、非日常の世界に誘う楽しさもわかるので、できれば近いうちに”それも”やってみたいと思う。

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