ある日のひとこと

 

 

=そのときどきの、思いついたこと、感じたことを書き留めてます=

 


 

閏年なので4年に一度の2月29日。たった一日なのにこのおかげで2月が長くなった気がする。時間を多く与えられたようで嬉しいものだ。ところで、素朴な疑問が湧いてきたのだが今日が誕生日の人は法的にはどういう扱いになるのだろう。たとえば19歳と20歳ではまったく異なるからかなり重要だ。平年は前日の28日にしているのか?それとも3月1日にするのか?閏年はどうするのか?16-2-29

 

帰りのチケットを渡されたとき、随分若い番号だから気を使ってくれたのかなと思っていたが、搭乗してみるとただ単に前部座席というだけでなくそこはビジネスクラスの席だった。本当にここでいいのか不安で何度も番号を確かめたがまちがっていない。最初の不手際を挽回すべくガイドが手配したのだろう。初めてのビジネスシートのおかげで成田までもゆったりできて降りるのが惜しい気分に。16-2-28

 

出迎えに来なかった理由は日にちをまちがえたせいだと弁解した。異国の地にたったひとりで置き去りにされたようなもので、もしもこれが初めての海外旅行だったとしたらもっと焦っていたに違いない。たまたま、自ら動けたからいいようなもので慣れない人だったらパニックになっていたはずだ。そんなドタバタな始まりだったが美術館と高層ビル巡りを楽しんだ。そして旅の最後にも想定外が。16-2-27

 

空港にいてもどうしようもないのでタクシーでマンハッタンのホテルに向うことにした。料金が心配だったが後で聞くと妥当な額だったらしい。ホテルに着くと今度はガイドが持っているはずの券が必要と言われ、とりあえずカード払いで部屋に入る。早急にガイドと連絡を取らねばならないのでJTBに勤めている身内に国際電話を掛けた。そのルートでようやくガイドに繋がりホテルに来たのだが。16-2-26

 

何と、ニューヨークの空港で出迎えてくれるはずの現地のガイドがいないのだ。遅れて来るのかと思いベンチで待つが30分経っても来ない。これは現地事務所に電話をするしかないと考えて空港関係者に電話の掛け方を聞いたがまったく相手にしてくれないので、近くに座っていた黒人のおばちゃんに頼むとすごく親切に教えてくれた。これもアメリカの姿。しかし、電話のコールには誰も出ない。16-2-25

 

旅の最初から想定外が始まった。ニューヨーク7日間フリーというパックだったので千歳空港で同行者と合流すると思っていたらそれはなく、成田でもたったひとりでの搭乗だった。シカゴで国内線に乗り換えるときももちろんひとり。乗り換え時刻が迫っていたので入国手続きの手間が心配だったが空港内を走って何とかセーフ。そして、ニューヨーク到着後に信じられない出来事に遭ってしまう。16-2-24

 

続き。この1990年クリスマスのニューヨーク行きには他にもたくさんの思い出がつまっている。本当はニューヨークでなくマチュピチュを目指していたのだが、具体的に調べると70万円近くも掛かることがわかりその半分で済むニューヨークに変更。そして、友人の「マチュピチュはこれからも同じだけど、今のニューヨークは今しかない」というひとことも納得できた。これから何回か続く。16-2-23


『ビーフ オア ビーフン』とぶっきらぼうに喋るテレビのCMを見て、ある体験を思い出す。それはアメリカに向う飛行機の機内サービスのとき、スチュワーデス(当時はそうだった)が優しさのかけらもなく叫んだのは『ティ、コーヒー』のみで『オア』さえも省かれていた。そのとき、この機内はすでにアメリカなんだと教えられたものだ。ただし、単語だけなのでわかりやすかったのも事実。16-2-22

 

続き。悔やまれるのは、旅行の最初の頃はヨーロッパの鉄道を3ヶ月間自由に乗り回せる超お特なユーレイルパスを使っていたにも関わらずバルセロナに行ったのはその一度だけだったこと。その間にローマやパリやマドリードには何度も向っていたというのに。夜行列車を利用してもちょうどいい距離なのに、なぜ思い付かなかったのか不思議な気もするが、そうしなかったのだからしかたがない。16-2-21

 

映画『サグラダ・ファミリア』はちょっと期待はずれでがっかり。関係者のインタビューがほとんどで美しい内部や建築中の様子が見られたのはほんの僅かだったのだ。できれば逆であってほしかった。このサグラダ・ファミリアを生で見る機会があったのに、それを逃した痛恨の思い出がある。40年前、バルセロナを訪れた第一の目的がピカソ美術館だった。それが中心にあったとはいえ・・・。16-2-20

 

昨日、夕刊小説を再び読み始めた話をしたばかりなのに今日からまた違う舞台へと移った。ようやく戻ったと喜んでいたのにあまりの短さに驚くというより呆れてしまう。こんな細切れを喜ぶ読者がいるとは思えないのだが、そうでもないのだろうか。とにかく、また読まない日々がしばらく続きそうだ。本と違って新聞小説は一度に読み進められる字数が限定されているうえにこれではたまらない。16-2-19

 

夕刊小説がようやく気になっていた人物達に戻ってくれて再び読み始めた。これまで10日余りも置いてきぼりをくった気分だ。この間はまったく興味のわかない内容だったので読むのは止めていた。こんな読み方は初めてだけどこれからもこの細切れスタイルで進みそうだ。できればこの人物達を中心に展開してほしいがテーマからしてそうはいかないだろう。あとはこの部分が多いのを願うのみ。16-2-18

 

家でのコーヒーは朝の一杯のみ。いつ頃からかは定かでないけれど、昼や夜は違う飲み物を飲むようになった。昼食や夕食の後は日本茶を飲み、他のときは紅茶が多くときには柚子茶や牛乳などを飲んでいる。これは寒いときのホットの場合で暖かくなるとペットボトルのお茶が中心になる。かつては夏冬関係なく一日に5杯も6杯もホットコーヒーを飲んでいたのに嗜好もすっかり変わったみたい。16-2-17

 

新聞のない朝はやっぱり物足りない。昨日の朝がそうだった。しかたなくテレビを見ながらのパンとコーヒーになったがどうもスッキリしない。見るより読む方が目覚めのための脳の活性化にはより役立つみたいだ。受動的か能動的かの違いもかなり影響している気がする。テレビは黙っていても勝手に変化してくれるけど新聞は読みたいものを自分で選択しなくてはならない。だから休刊日はいや。16-2-16

 

最近は水彩画を描く時間が多くなっている。昨年も『ハルカヤマ』の立体以外はパステルか水彩 などの絵画中心に制作していた。3年前の美術館での個展終了後、再び絵画に重きを置いてやっていきたい気持が強くなっていたのだ。ひとつの大きな理由はまだたくさんの残されている画材を使ってあげなくてはという思いだった。もちろん、絵画での表現をさらに追求したいという欲求が根底にある。16-2-15

 

文章を書くときに気を付けていること。これは『ひとこと』でも意識していて、同じ語尾を連続で繰り返さないようにしている。例えば、・・・だった ・・・した ・・・た や ・・・する ・・・である ・・・る など。同じ語尾を続け過ぎると文章の流れが悪くなり、それぞれがこま切れ状態になってしまう。そこに変化を入れるといいリズムが生まれて全体がスムーズに繋がってくれる。16-2-14

 

『ひとこと』にはひとつの決まり事がある。それは180か181の字数。書き始めの頃は一定でなかったが毎日書くようになってからは字数を決めた方がまとめやすい気がしてきたのだ。制限や条件があった方が目標がはっきりして満足感も得られやすい。少なすぎず、多すぎない字数を決める目安は原稿用紙の半分だった。そして、レイアウトの関係で4行に収めたらそれに決まったというわけ。16-2-13

 

まだ先なのに春を意識させられる排雪作業。毎年行われている道路の排雪が朝から盛大に行われた。大型重機で除雪をして道の片側に雪山を作り、違う重機がそれを飲み込みながらダンプカーに吐き出していく。それぞれが息のあった連携で進められる。大きな窓からそれを随分長い時間飽きずに眺めていた。自在に操る重機の動きを見るのも楽しいし、雪山がどんんどん消えていくのもおもしろい。16-2-12

 

映画『美術館を手玉にとった男』を観た。これは一人の男が精巧な贋作を100点以上制作し、それらを無償で美術館に寄贈していたというドキュメンタリー。美術館の学芸員を騙せるとは信じ難いのに30年間も寄贈を続けられた事実は驚くより他ない。贋作のアップも度々出てくるのだが、とにかく描写 力が素晴らしいのだ。どうやってその緻密で卓抜な技術を身につけたのか不思議でならない。16-2-11

 

翌日に書くつもりでいた3日前の法廷スケッチの続き。スケッチのために用意されるのは最前列のほぼ中央の席。いわゆる記者席で被告となった容疑者が立つ証言台にもっとも近い場所にあり法廷全体が見渡せられる。被告を中心に何枚もの鉛筆スケッチを描き30分ほどで退席してテレビ局に戻り、次のニュースに間に合わせるため超特急で水彩 に仕上げた。最後まで傍聴できなかったのが心残り。16-2-10

 

続き。サポートの人が教えてくれたように=マックミニのメールが終了できない=で検索すると、簡単な解決方が出てきた。そうしてみるとあっという間に終了できて心配していたのが嘘のよう。わからない知らないというのはときには怖いもので必要以上に不安を掻き立てられたりもする。とても3千円を払って教えてもらうような手順でなかったので、自分で解決しようとした選択は大正解だった。16-2-9

 

パソコンのメールを終了できず本体の終了もできなくなったのでアップルサポートに電話したところ「3年のサポート期間は過ぎているので有料になりますが・・・」と言われ「5年のはずですけど」と返すと「5年というのありません」との応え。納得できずに後で調べてみると5年に延長したのは本体の保障期間だった。一度のサポートで3,240円も掛かるというのでネットで検索することに。16-2-8

 

夕刊の方は残念ながら読むのを中断しそうだが、朝刊小説はおもしろさが続いているのが嬉しい。今は話が法廷のところに入っていて、裁判所や法廷内や裁判の始まり方などが詳しく描かれている。それが具体的で非常にわかりやすい。実は、裁判スケッチを5回ほど体験しているおかげでこの状況すべてをしっかりイメージできるのだ。それらは殺人事件を裁くものだったので緊迫感も忘れられない。16-2-7

 

=町内排雪運搬作業のお知らせ=の用紙が郵便受けに入っていた。いつもの年なら嬉しい知らせなのに今年はあんまり有り難みを感じない。なぜなら、道路もその横の雪山も大して高くなっていないのだ。そのうえ、作業予定日が2月12日になっている。ということは来週の金曜日で、よほどの大雪が降らない限りこの状態に変化はないだろう。春を迎える準備に戸惑うほど大雪の苦労が少なかった。16-2-6

 

続き。今まであまり深く考えずにいろいろな小説を読んできたが、その中での『時間』はどうなっていたのだろうかとふと気になり始めた。ある人物が登場しているとき、他の人物も同じ時間を経過しているのか、それとも止まった状態にあるのかという疑問。もし止まっているとしたら登場人物が代わったときには時間が戻されることになる。同時進行だとしたら知らずの世界がどんどん増えていく。16-2-5

 

新聞の夕刊小説がつまらなくなってきた。以前にも増して話が飛ぶし広がり過ぎているのだ。おかげで本筋さえぼやけてきている。もともと誰が中心人物という設定でないのかもしれないが、小説全体の焦点が定まらず読み疲れてしまう。とっても気になる展開があったのに、随分長いことそこから遠ざかっていてその興味も薄れてきた。小説のなかの時間の経過を考えると置き去りにされた感が強い。16-2-4

 

天を仰ぐ。何かで失敗したり口惜しいときに、無意識のうちに天を仰ぐことが多い。卓球のときにも度々このポーズが出てしまう。どうしてそうなってしまうのか知りたくなってネットで検索してみたが言葉の意味をそのまま説明しているだけで納得できるものは見つけられなかった。おもしろいのは天を仰いだあとに俯くことはあってもその逆はほとんどない。もしかしたら呼吸に関係があるのかも。16-2-3

 

3ヶ月毎の歯のクリーニング。これは2009年暮の親不知の手術での入退院以来続けているのですでに6年が経った。歯科に向うときには『もう、3ヶ月も過ぎたのか』と早く感じ『もっと間隔を空けてもいいのかな』と迷いも生まれるが、クリーングが始まるとやっぱりこれでいいのだと思い直す。そして、クリーニングを終えて予約を入れる3ヶ月後はずっと先のような気がする。次は春の4月。16-2-2

 

早くも2月に入る。どうして早く感じるかというと、それは雪のせい。とにかく降雪が少ないのでドカ雪で苦労をすることなく1月が終ってしまったのだ。こんなはずはない、いつかはどーんと来るはずと覚悟していたのにやって来なかった。雪の多い年でも2月に入ればあと1ヶ月の辛抱と随分気が楽になるんだから今年は比べようもないほど余裕の気持でいられる。とは言っても帳尻合わせが怖い。16-2-1

 

 

 



ウィンドウズで御覧の方は文字の表示を最小にしていただくと私のレイアウトに近づきます。

 

NAKAHASHI OSAMU

作品の著作権を侵害することのないようお願いします