ある日のひとこと

 

 

=そのときどきの、思いついたこと、感じたことを書き留めてます=

 


 

癖に苦労しているのは卓球も同じ。何度も同じことを指摘され、自分ではそうしているつもりでも正しく修正できないところが悲しい。これも、そう簡単には直せないものなんだと言い聞かせながら地道に頑張っている。癖になるまでには長い年月を掛けたはずだから、それをなくすためにも時間が必要なのは当然だ。無くて七癖というから、自覚のない変な癖やこまった癖は他にもあるんだろうな。14-9-30

 

身に付いた癖を直すのは大変。漢字を覚える努力は長年やってきたけれど、最近は字をきれいに書く努力もしている。そこで問題になるのが癖字。何度も何度も書き直しているはずなのにそう簡単にはなくせない。それなりに味のある字ならそのままでもいいのだが、そうとは思えないから改造に取り組んでいる。いわゆる美文字を目指すわけではなく、とりあえず悪癖を減らしたいというのが目標。14-9-29

 

部屋の奥まで差し込む日の光も秋を告げている。同じ場所に座っているのに体全体に陽を浴びるようになった。これからは奥へ奥へとどんどん伸びていく。夏の暑いときには陽は入らず、涼しくなり寒くなるにしたがって入ってくるのは有り難い。うまくできているものだ。これまでは避けていたはずの太陽も積極的に受け入れる季節がやってきた。外を歩くときも日陰でなく日向を選ぶようになる。14-9-28

 

スーパーの棚に並んだ柿を目にすると秋を実感する。大好物の果物だから嬉しいけれど、へたの近くには黄色みだけでなく青みも残っていて旬はまだ先のよう。もう少し待ってから口にしたい。柿のほかにはりんごの棚も随分増えてきた。種類もいろいろあって彩 りも鮮やかになっている。しばらくの間は高い値段だったのがこれからは手頃になってくれる。これで柿とりんごを交互に味わえそうだ。14-9-27

 

洞爺丸台風。自分にとっての社会的な出来事としての最も古い記憶がこれ。1954年9月26日に起こっていて今年で60年になる。だから、そのときは5歳だった。記憶に刻まれたのは転覆の数日後だと思うが、隣の家の誰かがその惨事で亡くなっていたのだ。尋常ならざる雰囲気は幼い子供心にも衝撃を与えたようだ。もし、隣家の不幸がなかったら記憶として残っていなかったかもしれない。14-9-26

 

『チンする』。この言い方を使う人が9割にもなるという。ということはこの意味を説明する必要もないわけだ。家庭に普及し始めた頃の電子レンジの仕上がりを知らせる音が『チン』だったのでそうなったわけだが、音と・・するが結び付いてひとつの言葉になったところがおもしろい。すぐには思い出せないがほかにもあるんだろうか。ここで、ひとつ思い出した。『ピンポーンする』もそうだ。14-9-25

 

本気度を疑う『自転車のマナー』の連発。死亡事故が連続して起こったのにまだそんな言い方で報道し続ける放送局にも大きな責任がある。『マナーでなくルールなんだ』とかなり前から何度かしつこく指摘してきたのに一向に変わらない。マナー=礼儀作法にかなっているかどうかという観点から見た態度。ルール=規則、それに基づいて行動が行われるように定めたきまり。意味は明らかに違う。14-9-24

 

いつもならもっと気に掛けていたはずなのに、知らず知らずにいつの間にかの感じで秋分の日になっていた。一年の大きな節目の内のひとつなのにどうしてこうなってしまったのだろう。その考察はさておき、最近ではめずらしいほど穏やかな晴天の一日で降雨の心配をしないで済んだ。こんな日が続いてくれて、晴れていても突然雨が振り出すのではないかという余計な危惧をぬ ぐい去ってほしい。14-9-23

 

車での運搬と移動。グループ展搬入日となり赤い作品を車に積み込んで運ぶ。1回では積めず2度に分ける。往復40分ほどで運び込みにはその倍の1時間20分近く掛かったわけだが費用を考えれば赤帽に頼むよりずっといい。搬入後、飾り付けまでの間を利用してギャラリー回りをした。それぞれを単独で行くには地下鉄でも問題ないが回るには大変な場所で、車の有り難みを噛みしめた一日に。14-9-22

 

最近は出掛けるときに忘れてならないものがひとつ増えてしまった。それは傘。秋の空は変わりやすいというが、それが極端になっている。晴れていたはずなのに突然降り始めたり、急に止んだりする。どっちにしても徐々にというのがない。そのため、もしも傘を持っていなければいきなりずぶ濡れ状態になってしまう。帰りのずぶ濡れならまだしも行きなら悲惨だ。時雨ならぬ 時激雨が相応しい。14-9-21

 

『忘れ物がない、どうして?』。そのいきさつはこうだ。ある場所に作品を取りに行き、紙に包んでから車に積んで家に戻った。その時点で用事は完了するはずだった。しかし、包むために持参した紙の残りが見当たらない。これからも必要なものなので再びそこへ行ってみたら、それがなかったというわけ。実は、『忘れ物』は持って行ってなかったのだ。そこにあるはずはない。何とも情けない。14-9-20

 

修理された車が1週間振りに戻ってきた。修理は完璧でどこを直したかわからないほどきれいになっている。ひとつだけ心配していたのがライトを覆うガラスのカバーが手に入るのだろうかという点。なぜなら、20年近く前の車だから部品の在庫を切らしていても不思議ではないと思ったので。ところが、それもちゃんと直っていた。今回はうまくいったが長く乗り続けるとそんな心配も出てくる。14-9-19

 

ついにワンルームが終了。これまではどの部屋に行くにもドアも引き戸も一切なかったのに、それが復活するときが来てしまった。それも突然という感じで。そのおかげで自由に行き来できていた境界に関所が生まれて閉じ込められたような気にさせられる。これからはまた初夏までの長い期間それぞれの独立した用途の部屋として分断されるわけだ。寒さに伴い動きが鈍くなる理由はここにもある。14-9-18

 

これを続ける意味。正直、そこに疑問に感じるときもたまにはある。しかし、そう思ってしまうのは書きたいことが浮かばない頭の回転の悪いときで、その逆に書きたいことが次々と浮かんでどれにしようか迷うときもある。続けられるのはいい状態の自分をより大切にしたいからだと思う。そして、続ける意味の答えはやり続けた後に見えてくるもので、やっている最中は見えないのかもしれない。14-9-17

 

この『ある日のひとこと』の過去の分を整理し直してみて、改めてその年数の長さを実感した。『ひとこと』の始まりは00年11月11日で02年の1月1日からは1日も欠かさず書いている。02年から数えても13年目に入っているわけで、最初の目標だった10年はすでに超えてプラス3年になっている。おかげでまもなく53歳から66歳へのすべての日々が繋がる。あと7年で20年か。14-10-16

 

『あれ?今日は何の日だっけ?』と思ってカレンダーを見てみると『敬老の日』になっていた。次に湧いてきたのがどうして9月15日なんだろうという疑問。今は日曜日が祝日だと月曜日が代休になるから、本当は9月14日なんだろうか。どっちにしても、この日になった理由がよくわからない。これからは『敬老の日』でなく『子供の日』のように本人達の日にしたほうがいいような気もする。14-9-15

 

半袖から長袖へ。夕方近い外出のせいもあったが今シーズン初めて長袖シャツを着る。これが正解でもしも半袖だったら引き返していたかもしれない。正確にはわからないが20℃辺りだった気がする。以前に書いたようにこの衣替えが秋への本格的な移行を教えてくれ夏の終りを告げるサインにもなる。そして、18℃を切るようになると涼しさから寒さに変わり上着が必要な季節に入ってしまう。14-9-14

 

100歳を越える人が道内だけでも2,000人以上いるという。ひと昔前には100歳を超えると新聞などでも取り上げられ町や市から表彰されていたものだが、これほど多くなると大してめずらしい存在ではなくなりつつある。長寿そのものはめでたく有り難いわけだがその状態が気になる。これから高齢人口が増え続けるのはまちがいなく自分も高齢者のひとりとして様々な問題を提起していく。14-9-13

 

日本が次第に軽くなっていく。重みや深さを知ったあとならいい意味にもなるからいいんだけど、最初から最後まで軽いままでいるような流れになっている。なぜ、どうしてなどの疑問やどうしたいのか、どうすればいいのかなどの探究がなくなると楽観か悲観の両極に走ってしまう。確かな根拠がないのに信じてしまったり、投げやりになったりこもったりする。安定するには適度な重さが必要だ。14-9-12

 

真夜中の雷鳴に目を覚ます。かなり激しい音が鳴り響いている。多分この後バケツをひっくり返したような大雨がくるんだろうと思っていたけどすぐにはやって来なかった。間もなく寝入ったのでその後の雨の様子は知らないでいた。それが、札幌市にも豪雨の特別 警報と避難勧告まで出ていたというから驚いた。テレビや新聞で見る災害をちょっと他人事のように捉えていた自分を反省しなくては。14-9-11

 

あるはずのものがないと不思議な気持になる。いつもと同じ家の前に駐車していた車が隣の人の運転する車に擦られてしまい前部が少しへこんでしまった。すぐに謝りに来て保険で修理させてもらいますとのことで、今日マイカーが台車に載せられて出掛けて行った。車検のときにも車はなくなるがせいぜい1日か2日であっという間だが今回のはもう少し長くなるようだ。慣れたころに戻るのかな。14-9-10

 

相変わらず卓球を楽しんでいる。ほとんど休みなしに黙々と動き回わっていると本当に運動が好きなんだなとよくわかる。とにかく心だけでなく体も疲れるというよりスッキリ感の方が大きい。もちろん、少しでも上手になれるよう努力をしているのでうまくできないもどかしさはあるけれど、そこを頑張るのも楽しみのうちに入っている。身に付けたい技はまだまだあるからいつまでも続けられそう。14-9-9

 

何だか嬉しいとき。スーパーでたくさんの種類の品物がカゴに入っていて簡単には計算できないときもレジの前に小銭のチェックは必ずしておく。この前はその余りがわずか2円ですごくついている気がした。もしも、あと3円多かったらさらにお札を出さねばならなくなる。どっちにしても出ていくお金の料は同じなのに気分が全然ちがう。1円足りなくて999円のおつりをもらうときは辛いもの。14-9-8

 

今年の初秋刀魚。秋の魚と言えばやっぱりこれ。値段も手頃な1尾100円になったので食べてみる。うまい。これからは度々食卓に上りそうだ。中学2年から高校1に掛けて浦河で自炊生活をしていた頃の秋刀魚の思い出がある。港で船から網を使って水揚げするときに勢いあまって大きな木の箱からこぼれ落ちた秋刀魚を拾って持ち帰っても咎められなかった。それだけ大漁の時代だったわけだ。14-9-7

 

災い転じて福となすというほど大袈裟ではないけれど、印刷屋の廃業に驚きショックを受け、新たに頼もうとした店は予想より高い値段のため諦め、自分のプリンターで印刷してみるとこれが一番安くなりそうだ。パソコンで作成する時間が掛かるのと印刷の出来上がりの美しさでは劣るもののそれなりに合格点を与えられる。プリントは手間いらずだし、印刷枚数を自由に決められるのも利点のうち。14-9-6

 

街の中心街まで歩いて往復。パソコンで作成した案内状のデータがあれば安い値段でプリントしてもらえるかもと考え以前ポスターのプリントを頼んだことのある店に向った。1時間半後に到着。見積りしてもらうと安いどころか高すぎるので断念する。これまでの印刷屋さんが随分安くしてくれていたのを知らされて感謝。私製はがきを400枚買って帰りも歩く。全部で4時間弱歩いて我家に戻る。14-9-5

 

教室展のための案内状印刷をファックスで依頼したところ『・・・このたび社長高齢の為八月をもちまして弊社を廃業することに相成りました・・・』という返答が届いた。10年以上に渡って頼んでいた個人経営の小さな会社なのでそれもあるかと思うけど、あてがはずれてしまった。こうしてまた顔の見える『町の印刷屋さん』が消えていく。新たに探すにも急を要するのでパソコンで作らねば。14--9-4

 

国のなかを守れていないのに外にばかり目を向けさせようしている。状況が悪化してくるとそこから関心を逸らすために外敵を作るのは常套手段でそれだけ追い詰められている証拠。攻撃されるかどうかわからない仮想敵国を想定して軍事費を大幅に増額しようとしているが、甚大な人的被害をもたらす地震や台風などの自然災害はまちがいなくやってくる。それに対する備えのないほうがずっと怖い。14-9-3

 

いよいよ9月に入った。それなのに残暑が続き一度は近づいた秋が遠のいた感じがする。この様子だとまだもうしばらくは半袖でも大丈夫のようだ。それもあってか9月には教室展ふたつとグループ展が控えていて何かと忙しくなりそうなのに、芽室へとは違う『歩く旅』を入れようかと思案している。今年もすでに3分の2が過ぎて残り少なくなってくるとさらに思い出を増やしたい願望も強くなる。14-9-2

 

昨日は毎年恒例になった近くの沿道での北海道マラソンの観戦と応援。4月にまったく同じマラソンコースを完歩してその長さを知っているので走っている人達の努力がよくわかる。それにしてもあの距離をほとんどの人が制限時間の5時間(多分)以内に走り抜くのだから素晴らしい。数え切れないほど大勢の頑張っている姿を見て大いに刺激を受けた。秋に控えている『歩く旅』への意欲も膨らむ。14-9-1

 

 

 

 

 



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NAKAHASHI OSAMU

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