ある日のひとこと

 

 

=そのときどきの、思いついたこと、感じたことを書き留めてます=

 


 

搬出。いつものことながら個展が終了して片付けるときは寂しいものがある。作品の披露宴と晴れ舞台は終りまた梱包され部屋の奧に収められてしまう。その梱包に予定より時間がかかり予約をしていた赤帽の時間までに終らすことができなかった。いつもだとちょっと遅れ気味に来てたのに時間ちょうどに到着したとの電話が入る。大汗をかきながら大慌てで作業を進める。余韻を感じる暇はなし。11-6-30

 

続き。『この作品はどこかで見覚えがある』『そうだ、ずっと前に購入した作品だ』と。買っていただいた作品そのものの写 真ではなかったが『青リンゴ』シリーズのものを見て思い出してくれた。その当時『青リンゴ』をモチーフにしたパステル画を連作していた。その人と話しているとその作品に再会したような不思議な気持にもなり懐かしさと嬉しさが湧いてきた。偶然というのはあるものだ。11-6-29

 

個展会場で偶然の再会がふたつも重なる。ひとりめは12年程前に約1年間絵画教室に来てくれていた人。書店に来てエスカレーター横にあったポスターに僕の名前を見つけてわざわざ会場まで足を運んでくれた。もうひとりはたまたま来場してくれた人が30年も前に自分の作品を購入してくれてた人だった。作品を鑑賞したあと過去の作品ファイルを見てもらったとき、その人は突然気付いた。11-6-28

 

カメラの話になったとき、自分よりずっと年上の人からも「デジタルカメラにしたほうがいいのに」と言われてしまった。デジタルテレビは90%以上普及したようだがカメラの普及率もかなり高くなっているのだろうか。「まだ使えるうちは使い続けたい」とは言ってるが、使い勝手も機能的にも優れているのは理解しているのでできることなら買い替えたい気持は強い。わかってはいるんだけど。11-6-27

 

日曜日の午前と午後。だいたい日曜日の午前中は来場者が少ないものだ。こんなときは個展会場撮影に絶好の時間なのにカメラを持って行くのを忘れてしまった。撮れるときに撮っておかないとあとで焦ることになる。記録も大事な仕事のうち。午後になると午前中とは打って変わって大勢の人達が観にきてくれた。こうなると重なってしまいゆっくり話したりする時間もなくなり残念な思いをする。11-6-26

 

個展初日。会場へは開始時間の30分前に着いて急いで最後の仕上げを済ます。全体が整ったところでゆっくり眺めるのが初日の楽しみになっている。まずは1番目の鑑賞者として展覧会に触れる特権がある。このときは制作者としての立場を離れてできるだけ客観的に観るのが大事。すると、今までとは違った部分が見えてきたりする。これから残りの5日間も有意義な付き合いをしていきたい。11-6-25

 

個展の搬入、飾り付けをする。この飾り付けは展覧会の善し悪しにも関係するので当然気合いが入る。作品を微妙に移動させながら展覧会場の空間と共に最大限活かしきる位 置を探っていく。インスタレーションとしての最終的な仕上げになるので念入りに調整するがこの緊張感がまたいい。最後の仕上げを終えてゆっくり眺めてみると今回も新たな嬉しい発見があって褒美をもらう。明日が楽しみ。11-6-24

 

『健康な人はときとして傲慢になる』という言葉を理解できる。自分には無理なく自然にできることが困難な状況にある人の苦しみを親身に受け止めるのは難しい。そして、『重い病気を持った人はときとして冷淡になる』というのもあるような気がする。自分より軽い人に対して『そのくらいならまだいいよ』と軽く受け流してしまう場合がある。どっちにも自分の秤では計り切れないものがある。11-6-23

 

昼間は曇りの予報にも関わらず晴れ間もあって夏の日差しを浴びせられた。最近はすっかり日差しを避けているのでこんな言い方になってしまう。若い頃は日焼けは体にいいと思い込んで積極的に焼いていたのが嘘のよう。今日書くのは日焼けの話でなく夏至のこと。午後には強い雨が降り夕方も薄暗くどんよりしたまま1年で一番長く太陽の恩恵を受けられるはずの節目の日が寂しく去っていった。11-6-22

 

10年ひと昔というけれど、なにを基準に振返るかでその長さは違ってくる。今回作ったファイルでの10年、つまり制作での10年は大して長くは感じない。ひとつひとつの発表がその時点での精一杯の自分を発揮した満足感として繋がっているからだろうか。日々の積み重ねの『ひとこと』の方が少し長く感じるのは休みのない継続のせいか。8年前の母の死などの出来事はもっと遠くに思える。11-6-21

 

現在から10年分を遡った作品ファイルを完成させてファイルのタイトルを入れるときにあることに気付いた。2001年から2011年の10年は『ひとこと』の10年にも重なっている。年を区切りとすると2002年の1月1日から途切れることなく書いてきたわけで出来上がったファイルと共に10年の歳月の長さを改めてかみしめた。『ひとこと』はまだ年の途中なのでもうひと頑張りだ。11-6-20

 

草の匂い?それとも臭い?。いつもの散歩コースの安春川の先には牧場があり、横にかなり広い牧草地もある。以前にもその広さを説明するとき曖昧だったので今度携帯電話の万歩計で計ってみよう。話を戻して、そこの牧草が刈られていて独特の「におい」が漂っていた。決していい匂いではないがそんなに嫌な臭いでもない。その中間辺りだろうか。そんなところを言い表わす漢字もほしいもの。11-6-19

 

朝、食事をしていると周りにもやはり食事をしている大勢の人達がいる。どうも下宿のようだ。それにしても人数が多い。30人以上はいるみたい。ふと、窓下を覗くと修学旅行生がバスに乗り込もうとしている。手許を見ると知らない携帯電話があったので、掛けてみると「どうして返さないの」と叱責される。早急に返さねばと思うがその方法が浮かばない。疲れてしまったおかしな夢の出来事。11-6-18

 

珍しいことに搬入まで1週間を余して出品予定の作品がすべて仕上り余裕で迎えれる状態になった。案内状は出し終っているし、赤帽の手配も済んでいる。あと残っているのは作品の梱包くらいしかない。いつもなら前日か前々日にやる作業なのにもう手を付け始めた。慣れてないというのは恐ろしいもので、喜ぶべき状況のはずなのに何かやり残しているような不安に駆られて落ち着かない気分だ。11-6-17

 

あまりにも静かなときは“シーン”という音がうるさく鳴り響くという場面 が漫画などであったりするが耳鳴りはまさにそんな感じ。残念ながら人里離れた野や山での満天の夜空も遥か彼方の地平線から昇る朝日も無音で眺めることはできない。静かになればなるほど大きくなるのが悲しい。今も“ミ〜〜〜〜”と途切れずに鳴り続けている。《閑けさや 耳に沁み入る 蝉の声》といったところか。11-6-16

 

静かになるとうるさくなり、うるさくなると静かになる。そして、家に帰ってくると急に聞こえ始め、外に出るとほとんど聞こえないものは。謎掛けのようだがその正体は耳鳴り。5年前の突難のときからの付き合いなので当り前になっているが自分の居場所によってその聞こえ方は随分違う。外に出ると小さく感じるのはいろいろな音に包まれているためだろう。耳鳴りで静けさの度合いがわかる。11-6-15

 

古本の行き場所。この前、古書店へ本を持参して侘びしく嫌な思いをしたのでもう行くまいと決めた。それならいっそ古紙に出そうとしたが町内会では集めていない。しかたなく雑紙で出そうとして玄関に置いておいた。そこでようやく以前も持参したことのあるいい場所を思い出す。それは地下鉄駅構内にある読みたい人が自由に持ち出せる本棚。お金にならなくてもこっちの方がずっとスッキリ。11-6-14

 

新しい信号機を発見。街の中心部の横断歩道で信号待ちをしているとき、すぐ向いの車の信号機が随分薄いことに気付く。薄いだけでなく全体が黒になっていてよりシャープになっている。そして、もうひとつの変化はその信号機が斜め下向きに取り付けられていたこと。運転席から見たときに信号が正対する角度にしているのだろう。確かにこの方が見やすいし、太陽の反射防止の意味もありそう。11-6-13

 

朝から少しがっかり。新聞を見ると一番後ろにあるはずのテレビ欄がなく、真ん中に2日分がまとめて載っている。ということは明日は休刊日なわけで寂しい朝になるのがわかってしまった。その穴を埋めるためにきっとテレビを見るのだろう。でも、見るのと読むのでは頭の使い方が違う。、読む方がより積極的に頭を働かせられる。そこがとても大事。食事が第二で新聞は第三の目覚まし代わり。11-6-12

 

『内包』-ここにいる- 時と場と人の内に包まれて 今 ここにいる。『内包』はすでに7年ほど続いているテーマだがこれからもずっと続きそうな気がしている。最初はそれほど深い意味を持たなかったのに毎回深化してきた。その中味は今回もタイトルと副題に表れている。それまでは自分の内にあるものを探し求めていたが、前回の発表のとき、自分自身が包み込まれている存在と知らされた。11-6-11

 

企画した人の誘いがあり個展のオープニングパーティに出る。京都から駆け付けた作家に寂しい思いをさせないようにとの心遣いが伝わってきたのでちょっとだけ頑張って出席。どうにも、このパーティというのが苦手。ほとんど出席しないからその雰囲気に慣れてないし、もし、そこでの自分の立場が曖昧だったりするとどう振る舞っていいか戸惑ってしまう。落ち着かないから早めの退散となる。11-6-10

 

個展の案内状の宛名書き。この作業に入るといよいよ会期が近づいたことを実感する。作品を観てもらい、喜んでもらえたらとの願いを込めて住所と名前を書く。発表の度に何度となくやってきた宛名書きだけれど今回改めて感じたのは『籐』の多さ。伊藤、斉藤、内藤、佐藤、近藤、加藤、そして藤井、藤沢、藤本、藤崎と100人余りの中にこんなにもあるとは。おかげで『藤』の字に親しめた。11-6-19

 

自分の体の見えないどこかが大した痛みのないまま気付かぬ内に疲れ切っているかもしれないし、いけない何かがどこかで悪さをしているかもしれない。すでに62年間いっときも休まず働き続けてきたわけだからどこかがおかしくなっても不思議ではない。できれば、それを早く見つけてあげたいものだ。6年前の突難以来いろいろな変調が出始めていて今回の入院もいい警告だと受け止めている。11-6-18

 

昨日の続き。昨日の夜はほとんど違和感を感じずに眠られたから『異常なし』の治療は役立ったようだ。以前に比べると体の変調により敏感になっているのは確か。変調があるのに異常なしと診断されるのは嬉しいようなこまったような複雑な気分。でも、「もし、何かあるのならそれを押さえ込むより出してしまった方がいい。そうすれば対処のしようもあるから・・」との説明は素直に納得できた。11-6-7

 

6,990円なり。これを高いと考えるかしかたがないと受け止めるか。1年前にも出て来た顎下の腫れと喉のイガイガが気になって耳鼻咽喉科へ行った。触診をして、喉の様子を診てもらうと両方とも特に問題は見当たらないという。念のためCT検査を受ける。それでも異常はないとの診断。結局、しばらく様子を見ることに。次の予約も何の薬もなく「異常なし」の言葉に払った安心料が最初の金額。11-6-6

 

隣町に借りているアトリエ(今は作品置き場の意味合いが強い)の草取りに向う。久し振りの郊外のドライブが楽しい。窓から入る風も気持いい。水の張られた田んぼには苗が揺れている。寒い日が続いていたがここでは秋への準備が調っていた。草は予想より少なく、その分徹底的に抜き取れたのでかなりきれいになった。帰りには真っ赤に輝く美しい夕日を眺められた。郊外ならではの風景に感激。11-6-5

 

大金を払ったに違いない安田侃の彫刻も狭い歩道の真ん中に置かれていたりしてその大きさ(物理的な意味だけでなく精神性も含めて)がまったく活かされていない。ただ単なる大きな石の塊にされてしまっている。その場が自然ならまだいい。センスのかけらもない中途半端に人の手の入った空間に置かれたらいいものも死んでしまう悪い例を見せられているようだ。とにかくこの低レベルが悲しい。11-6-4

 

昨日の続き。気になった点はたくさんありそのうちのいくつかを上げてみる。せっかくの河川公園なのに川の側には高い段差があり水に親しむことができない構造になっている。下まで降りられる場所はほんの一部のみ。全体的に直線的で遊歩道というよりは単なる歩道。サークル状の橋は最悪で人ひとりの幅しかなく立ち止まることも許されない。植えた木が細いのばかりで木陰がない。まだ続く。11-6-3

 

あまりのひどさに言葉を失う。期待していただけに落胆も大きい。札幌市が都市再生の大型プロジェクトとして作ったはずの中心部の河川公園があまりにも貧弱で情けなく恥ずかしいほどの出来。とてもプロが設計したとは思えないほどすべてが中途半端だ。多くの人が憩える空間にはなっていないし、そうしたくなるレイアウトにもなっていない。見せ場の川にはゴミが放置され川底は濁っていた。11-6-2

 

いよいよ6月に入る。あちこちで「もう、6月になるなんて早いよね」という声が聞こえてくる。ひとつには春らしい暖かさがないままここまで来てしまったせいもあると思う。季節を満喫する間もなく過ぎ去ってしまうとそこを埋める記憶がないからなおさらあっという間になってしまう。本当なら一番過ごしやすい季節のはずなのにそんな長閑な日はほとんどなかった。この夏はどうなるのだろう。11-6-1

 

 

 

 



ウィンドウズで御覧の方は文字の表示を最小にしていただくと私のレイアウトに近づきます。

 

NAKAHASHI OSAMU

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