ある日のひとこと

 

 

=そのときどきの、思いついたこと、感じたことを書き留めてます=

 


 

秋にはグループで野外での発表をすることになり現地の見学に出掛けてきた。イメージしていたより狭く平地が少なかったが、坂や斜面 もあるので段差のある室内のようにおもしろい空間になるかもしれない。作家それぞれが自分の好きな場所を選んで名札を立てテープで囲んで縄張りを決めていくわけだが何とか重なることなく希望の場所を確保できてほっとした。久し振りの野外の発表が楽しみ。11-4-30

 

どうしようもない北電の隠蔽体質。原発PRの看板撤去の理由が「金具が腐食したため」で「原発事故とは関係なくたまたま時期が重なっただけ」だとして「予算がないから再び掛ける予定はない」という。PRは重要と考えていたはずで予算を取ってないのはおかしいし、金具の交換と取り付けに莫大な金が掛かるわけでもない。止める理由に説得力がない。どうして正直に本当のことを言わないのか。11-4-29

 

『ハーブ&ドロシー』を観たのは先週の木曜日。そして、今日は『わたしを離さないで』を観た。本も続けて読みたくなったりするが映画も同じ。内容は男女三人の恋心や孤立や葛藤のようだが、三人は特異な環境で育ちドナーとして生き死んでいくという何とも不思議な背景になっていた。どうしてそんな状況に置かれたのかわからないまま終ってしまう。題名は『わたしは離さない』の方がいい。11-4-28

 

それぞれには直接的な繋がりのない3人の人に同じ映画を勧められ、これは是非行かねばと『ハーブ&ドロシー』を観てきた。いい意味で生き方が「すごいなぁ」というのと二人の関係が「いいなぁ」というのが観終ったときの感想。現代アートに興味を抱いた夫婦が自分達の給料で買える値段と1LDKのアパートに収まるサイズのふたつの条件で2000点もの作品をコレクションしたという内容。11-4-27

 

今回の発表を観に来てくれた人との愉快な会話。「僕はこんなふうに段差のある家が好きだけどバリアフリーには逆行するね」「でも、バリアフリーにも問題があるみたいで、それに慣れちゃうと筋肉も衰えちゃって外でのちょったした段差につまづいてしまうらしいよ」「そうか、それもあるだろうね」「だから全部バリアフリーも良くないみたいで最近はバリアアリ−になってきてるんだって」。11-4-26

 

住宅での作品展示は観る人と作品の距離を一気に縮められるのも大きな収穫だった。靴と上着を脱ぐと緊張感もほぐれてくつろいだ気分になり、構えずに作品と対面 できるようになる。自分と作品が同じ空間にいて一緒に包まれている感覚がギャラリーや美術館よりずっと強くなるのだと思う。椅子やソファーや床に座って、お茶を飲み会話を交わしながらのんびり鑑賞できるのも住宅のいいところ。11-4-25

 

個人住宅での発表があと一日になったというよりなってしまったという気持のほうが強い。7日目にもなると最初は緊張したセコムの鍵にも慣れ、住宅にもすっかり馴染んでまるで自宅のような気分にもなってきている。自分の作品に囲まれている幸せのときが終ってしまう寂しさをギャラリーでの個展のとき以上に強く感じるのは生活の一部のようにくつろげる時間と場所になっているからだろう。11-4-24

 

もう20年以上前のことだろうか、『朝までテレビ』という討論番組があって原発も何度か取り上げられていた。それ以前から反対の立場にいて興味のあるテーマだったのでしっかり見た記憶がある。ずっと前から危険性を訴え続けていた人はいるわけで、安全宣言に惑わされそれが広く知らされてこなかったのが悲劇。意味深く強烈な印象だったのが広瀬隆の『東京に原発を』という本のタイトル。11-4-23

 

国を揺るがし今後の日本を大きく左右する原発であるからこそ、より多くの人できればすべての人に基本的な知識を持ってもらうよう国レベルで積極的に広報すべきだ。正しい知識を持っていないと心ない差別 を生み原発の被害者をさらに苦しめてしまう。実際に、極めて微量の放射線を浴びた人が宿泊拒否されたりしたらしい。放射線も『日焼けした人の隣にいても日焼けをしない』のと同じこと。11-4-22

 

放射能と放射線の違い。つい最近の新聞でそれを知るまで正しい認識をしていなかった。今まで何も知らずに放射能という言葉を使っていた。まず放射線とは「強い電磁波」で「強い光」とも言えて、放射能とはこの放射線を出す「性能」や「能力」だという。さらに、放射性物質とは放射線を出す「源」を差している。そうだったのか。怖いものであるからこそこれらの初歩的な知識は共有すべき。11-4-21

 

新聞には=東日本と道内の放射線量測定値=というのが載っていて非常時であることがひしひしと伝わってくる。原発事故の影響が長期化してこれが天気や気温の予報と同じように日常になってしまうのがもっと怖い。その可能性が大きいだけに深刻だ。何故だかわからないが、県や都市によって測定値の平常値にはかなり開きがあり、そんな中で札幌が結構高い方の値になっているのは意外だった。11-4-20

 

齋藤(斉藤)、渡邊(渡辺)、濱田(浜田)、野澤(野沢)などなど、いつ頃からかは定かでないが近年名字を字画の多い字に変える人が増えてきたような気がする。直接本人からその理由を聞いたことがないので真意はわからないが、少しでも威厳を持たせたいということなんだろうか。自分には他に当てはめる字がないせいもあるけれど、できるなら年令と共に軽くなっていけたらいいなと思う。11-4-19

 

今日で個人住宅での発表の前半の4日間が終った。明日から3日間は閉じて、金曜日から後半の4日間が又始まる。ギャラリーでの個展と違って靴を脱ぎ家に入っての鑑賞なのでお互いにリラックスした気持になれるのがいい。鑑賞とはいっても作品と住空間との共振を体感してもらう要素が大きいからここでしかできない発表になっている。後半も多くの人達に非日常を楽しんでもらえたら嬉しい。11-4-18

 

今日も寒い一日になり、もう使わないだろうと冬用の物と一緒にしまっておいたマフラーと手袋を取り出し身に着けて出掛けたのが大正解だった。外に出てすぐにその有り難みを実感したし、夜の帰りもそのふたつがなければ震えていたのではと思えるような寒さで大いに助けられた。備えあれば憂いなしで、ちょっとでも気になったり心配のときはそれなりの準備をしておくべきだと改めて感じた。11-4-17

 

春の嵐。夜に入って急激に冷えてきて風も強くなり嵐のように吹き荒れた。今もびゅうびゅう風音をたて窓枠をがたがたと揺らしている。地下鉄から歩かずバスに乗ったというのに下りたバス停から自宅までの300m程の間に何度も傘を飛ばされそうになり横殴りの雨にズボンはずぶ濡れになってしまった。まるで台風を思わせるような猛烈な風だった。いったいこの嵐はどういうことなんだろう。11-4-16

 

個展の初日。掃除機をかけ、玄関横に目印用の案内状を貼り、作品の置き具合を調整し、電気ポットの電源を入れ、ライトの確認をして余裕で開始時刻を迎えた。でも、玄関近くのソファーに座って来てくれる人を待ったがなかなか来ない。その内、ガラスの汚れが気になり拭き始める。じっとしてられない性分でこまったものだ。最初の訪問者は2時間後だったがその後は切れ目もなくほっとする。11-4-15

 

昨日は会場となる住宅のガラス拭きをして、今日は玄関口とカーポートの床に水を流してきれいにした。今回の発表は室内だけでなく建物自体も大事な要素なので外側にも気を配った。外観を眺め入口の前に立つときから『内包』の世界は始まっている。外と内との境界はガラスで覆われ透けているので体が中に入る前に気持は先に入り込んでいく。だから、そこは重要なプロローグの役目を果 たす。11-4-14

 

『異常な死』。最近、このパソコンのメールのタイトルに『異常なし』と打ったら『異常な死』と出てきてぎょっとしてあきれてしまった。今までも何度となく誤変換してきて「どうしてそんな変な字を持ってくるの」と聞きたくなったものだ。ときには笑ってしまうものもある。それに加えて悲しいのは学習能力がないため同じ誤りをしつこく繰り返すこと。それにしても『異常な死』とは・・・。11-4-13

 

今日も発表の場となる住宅へ行き飾り付けの続きをした。住宅警備のセコムに守られている家なので鍵でドアを開けてからすぐにチェックをする必要があり、のんびりできないからちょっと焦ってしまう。これもすぐに慣れるだろう。そこにはCDプレイヤーがあるので自宅でいつも聴いているジャズをかけながら作業を進めた。お気に入りの音楽があると気持も弾んでさらに楽しくなる。ほぼ完了。11-4-12

 

個展の搬入日。今回の発表場所は個人の住宅ではあるけれどセカンドハウスのような家で生活感はまったくない。飾りもほとんどないので作品を設置すると新たな空間へと生まれ変わり、命が蘇ったかのように呼吸が始まり脈打ち温もりが漂い始める。ギャラリーでは感じることのない安らぎと落ち着きがある。その違いが嬉しい。個展開始は4日後なので飾り付けもじっくりゆっくり楽しむつもり。11-4-11

 

夕方の散歩のときに知事と市長と道議と市議の選挙の投票に行ってきた。今回は4つが一緒なので投票のしがいがあった。そこまではいいのだが、最近の選挙速報はまったくおもしろくない。開票率0%なのに早々と当選確実が出たりするから何の緊迫感もなく見る気もしなくなる。いわゆる出口調査というものからはじき出すのだろうが途中経過をもう少し楽しませてくれてもいいような気がする。11-4-10

 

心ない問いかけ。「友達できるかな?」「わからない・・・」。震災地を離れて違う学校に編入する小学校の低学年に向ってレポーターが言った言葉とその返事。何と冷たい言い方だろう。それでなくてもつらく悲しい思いをしてるのにどうしてわざわざ不安にさせるのだ。あきれるというより憤りさえ感じた。「新しい友達ができるから楽しみだね!」と言えば「うん」と応えてくれるというのに。11-4-9

 

自意識が強くてあまのじゃくだから、たまに出くわす選挙の街宣車から極力目をそらす。手を振ったわけでもないのに「ありがとうございます」と機械的に言われるのが嫌だから顔を合わせないようにする。ただただ名前を連呼するだけしか能のない候補者を応援していると思われたくない。さらに気になるのは連呼するのは候補者本人でなくうぐいす嬢(というよりおばさんぽい)ばかりなのはなぜ。11-4-8

 

心配してたのにやってみると何の問題もない場合がある。昨晩の湯たんぽ離れがそれ。布団に入るなり体もすぐに温まり、あっという間に寝付いたようで朝までしっかり熟睡。これで布団のなかにも春が来たわけだ。出掛けるときの服にも変化が表れ、少し前まで多少の迷いがあった春物の上着を安心して着て行けるようになった。こうして季節の移り変わりがはっきりすると心配や迷いも消えていく。11-4-7

 

寝るときの湯たんぽを止める踏ん切りが付かなかったが、この陽気でようやくできそうだ。始まりを先延ばしするのはそんなに難しくないけれど、終りを早めるのは難しい。始まりはより快適な方に向うので余裕でいられるが、止めるときは心地よさをなくしても大丈夫かなと心配になってしまう。布団に入ったときのあの温もりはすごい安堵感を与えてくれた。今晩からは自分の体の温もりが頼りに。11-4-6

 

ようやく春らしい陽気がやってきた。随分長いこと待たされたものだ。この時季になっても日陰にはたくさんの雪が残っていて、その雪を道路にまき散らす光景にちょくちょく出くわす。黙っていても解けるとはいえ悩まされた雪を早くなくしてすっきりした気分で春を迎えたいのだろう。我家の横にも雪が残っているが日に日に小さくなってあと数日で消え去りそう。雪がなくなって本当の春になる。11-4-5

 

震災に対して「私にはこれしかできない」と自分の専門分野での励ましを口にするスポーツ選手や歌手など様々なジャンルの人達がいるが何故か違和感を感じてしまう。それは、あえて口にする必要のない言葉のような気がするからだろう。トラックの運転手もスーパーの店員も床屋も皆、自分の仕事を黙々とこなしているわけで、プロとしてというより一個人として「できる」ことを言ってほしい。11-4-4

 

今日もまた雪が降り寒い一日になって車はうっすらと雪に覆われてしまった。解けるどころか積もるとは・・・。もう使わないだろうとトランクにしまった雪払いの道具を再び出して窓の雪を落す。車に乗って向った先は自動車工場。2年に一度の車検のときが来てしまったのだ。最近はスタンドでの車の点検をしなくなったので安心のためにはしかたないとはいえ、その費用が7万とは高くてつらい。11-4-3

 

4月に入ったというのに雪が舞う。早く本当の春になってほしい。スーパーで1玉 90円と随分安いレタスを見つけ迷わず手に取る。帰宅後その袋を見ると茨城産と書いてありその安さの意味がわかった。レタスの売り場に特別 な表示はなかったようだがきちんと大きく書いたほうがいいと思う。それを知って買わない人もいればあえて買う人もいるはず。茨城産とわかってもまちがいなく買っていた。11-4-2

 

さらに続く。朝まで熟睡して朝食もおいしくいただく。その少しあと、向いのベッドに来た年寄りの「個室を予約してたのに入れないなら今日来なければよかった」という強い不満が聞こえてきた。看護士は「今日だけは我慢してほしい」とお願いしているが納得しない様子。こんな人は個室に入ってもらわないと同室の患者が迷惑する。ここの人達もがっかりしたに違いない。幸い入れ代わりに退院。11-4-1

 

 

 

 



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NAKAHASHI OSAMU

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